最近、医療でのインフォームドコンセント(IC)(※1)や患者の自己決定権が医の倫理の基本的理念となり、
従来の伝統的な医療倫理、即ち、パターナリズム(※2)が崩壊し、新しい医療倫理として、米国を中心に世界各国に広まった。
そもそも医療倫理とは、医療現場でおきる道徳問題をいう。
倫理や道徳は、社会の中で人の行うべき正しい道であるが、民族や国家、宗教などで異なり、また時代の変化によっても変動することがある。
倫理が、医学、医療に必要不可欠な要素であることは、ギリシャのヒポクラテス時代に始まり、時代と共にその精神、医の倫理は受け継がれてきた。
しかし、近年になって医療技術が高度化及び多様化になるにつれ、ヒポクラテスの誓いの内容も一部批判されるようになってきた。その背景には、
医師と患者の父子関係の、いわゆるパターナリズムが挙げられ、特に日本ではその傾向が顕著だった。
現在、患者(人間)中心の医療を行う新しい倫理として、バイオエシックス(生命倫理)が注目されるようになり、それは、
安楽死(※3)、尊厳死(※4)、
遺伝子操作をした医療(遺伝子治療(※5))、生殖補助医療(※6)、
臓器移植(※7)など、人間の生命に関する倫理的問題を考察する学問(生命倫理学)となった。
個人主義や人間中心主義(※8)及び功利主義(※9)を徹底するバイオエシックスは、
ICや患者の自己決定権を確立させ、従来の医療倫理(パターナリズム)にパラダイムシフトをもたらしたことは画期的成果であった。そしてその後、
バイオエシシスト(生命倫理の専門家)らが、医療倫理の4原則(自律尊重、無危害、善行、正義)を提唱した。しかし、残念ながら、我々医師やバイオエシシスト達は、
この原則に従い、医療現場で起きている様々な問題の解決を試みるも未だに明確な答えを見い出せていない。この理由の一つには、4原則があまりにも抽象的で、
人生観、人間の内面性や性格、文化、宗教及びジェンダー(※10)については、ほとんど無力であったからである。さらに、
皮肉なことに患者の自己決定権がバイオエシックスを脅かし、特に生殖補助医療では、バイオエシックスが難問の前に立たされている。
この様なことから、現在、バイオエシックスそのものの意味が問われており、生命倫理学は今まさに重大な岐路に直面し前途多難と言わざるを得ない。
一方、自然環境の保全から、人間中心主義の考えが批判されるように
なり、自然と人間の共生を図る環境倫理学が生まれた。
環境倫理学(※11)は、地球環境問題に対して倫理学的観点から考察する学問で、
生命倫理学と本質的に対立し
人間非中心主義(※12)を唱えている。最近の地球温暖化の防止や自然環境の破壊の防止などの地球環境問題は、
人間中心主義を超越しようとするものである。個人の生存より生態系の存続を優先する傾向を持ち、当然と考えられている概念(自由、正義や個人主義など)が、
環境倫理学では根本的な疑問にさらされるという。従って人間非中心主義は、自己犠牲の精神を試されているとも理解できる。不幸にも今年3月11日、
国内観測史上最大のM9.0の東北地方太平洋沖地震が発生し、津波や火災で多数の死傷者が続出し、しかも福島第一原子力発電所事故が引き起こされた。
その現場では、日本、世界いや地球を汚染する放射性物質を封じ込めるため、消防、警察、自衛隊の人々が身の危険を顧みず、
必死で任務を遂行する姿勢に感動させられたが、これはまさに自己犠牲の精神といえるであろう。医療面では、臓器の移植医療がそれであろうか。
現在、医の倫理は、生命倫理や環境倫理が交錯しあうカオス的な結果を招いており、ICや患者の自己決定権についても新たな問題をも浮上させた。
今後の医療問題は、生命や環境の問題を同じ条件で研究し、それらを統合させて、諸問題に場当たり的でなく、理論と原則をもって、より良い医療、
即ち、医療の質と安全、安心のために、新しい医療倫理を構築していかねばならない時代となった。

では、劇的な医療技術の進歩に対し、
現状で起きている新しい問題に我々の医療は、どう向き合っていけばよいのだろうか。医療従事者がなすべきことは、まず、患者が命と向き合うとき、
専門的見地からの必要な情報、技術を提供し、そして、患者自身の自己決定権を行使出来るように手助けするパートナーの役割を果たすことである。
また、患者と医療従事者は、お互いを認め合い、信頼関係を築けるようコミュニケーションを図ることが何よりも大切である。時代が変わり、
どんなに医療や科学技術が発達し、医療や生命及び医療倫理が変化しようとも、お互いの信頼関係を崩壊させることなく、
医療に専念し続けることが重要ではないかと考える。